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皆笑った

「だけど恋してるなんて / もう若くないのに / 自分でもおかしいから / すこし笑った」というなつかしい歌がありますが。年齢を経るごとに感触が変わっていくのは恋愛にかぎらないわけだけど、こと自分にとっての恋愛は「しなければならないもの」という枷(かせ)から「べつにしなくてもよい」みたいな方向性へ年々と解放されているように感じる。恋愛至上主義という概念は、もともとは封建的な社会からの心的自由を求めたことを背景に持っているはずなのに、なぜか現代では「しなければならないもの」的な同調圧力とか強迫観念みたいな仕上がりになってるの何?ってなる。90〜00年代のトレンディドラマとかもはや狂気の沙汰で、すべての現象が恋愛を前提に存在していて笑う。大映ドラマは許す。ここ10年くらいやっと性愛の多様性が可視化されたことで、さまざまな人々がそれぞれ作る愛の形みたいなものの存在がすこしずつ見えてきて、あんまり恋愛に対して興味のない自分も別にヘンじゃないじゃん!と勇気づけられる機会も多い(先駆者の方々に感謝)。社会というキャンバスはこんなふうにさまざまな色が共存しているのに、それがあたかも存在しないかのように一色でぞんざいに塗りつぶされてしまっていたりするの何?ってなる。他方で自分も知らないうちに塗りつぶしてる側にいる可能性もなくはなかったりさ。そんな中に「実はいろんな色 / シェードがありました」と、誰かの人権とか生命がおびやかされたり犠牲になってから知っても遅かったりする。恋愛の話から飛躍しすぎてる気がしますけど(笑)。なもんで @producedbysty を見てもらうとわかるんですけど、私って恋愛の曲をほんの数えるほどしか作ってないんですよね。(ものすごくアンバランスに見えるけど、こういうソングライター / プロデューサーもふつうに存在させてくださいよとひとつお願いしたい所存)で、自分がアーティスト活動するにあたって今一度フラットに恋愛について考えたとき、もしそこに何か楽しみを見出すとしたらなんだろうか?と思考実験したら(わざわざ考えないと思いつかない)「恋愛そのもの」が楽しいってより「恋愛が始まりそうだな」というワクワク感が楽しいのでは?ってなる。つまり「楽しいこと」そのものを愛するのではなくて「楽しいことが起きるかもしれないという予感」を愛する、みたいな。そんなモヤモヤの中に自分の場合は物語が生まれたりして、曲にしーちゃおってなる。(それがそうならないからあんまり作ってないんだが)ということでぼんやり作ったのが新曲の「接吻マイハート」になります(宣伝の前置きなげ〜〜)。あんま恋愛興味ない人の恋愛観ってこんな感じとふむふむしていただけると幸いです。iTSでは昨日の5/1から予約購入可となってまして、サブスクはすべてのプラットフォームで5/7から配信開始です。どうぞよろしくおねがいします!(また告知しますね)※この天才的に激かわオブザイヤーなイラストを描いてくださったのは鮫島さん @the_smzm です。天才。次回作でもかわいいイラスト描いて頂いてるのではやくみんなに見せたい。天才。

きみはメロディ

春は新しいことにたくさん出会わなくてはいけない季節で、私はそれが苦手だ。新しいということは知らないということであり、知らないということは恐怖である。今だってポッカリ空いた2時間ほどの唐突な自由時間、神山町にいるっていうのにおしゃれなカフェなどではなく、深町のファミマでサンドイッチを買って代々木公園でモソモソと食べながらiPhoneでこれを書いている。四十路になってもこの調子であるからして、新しい人や場所に対する恐怖心は相当な物だ。一方で、新しいものが怖い、と言い続けられる環境にいさせてもらえたという言い方もできる。人間など普通に生きていたら怖いとか不安とか楽しみとか、そんなもの関係なく新しいものに触れざるを得ない状況は必ずあるが、それを拒否する選択を、こんなしょうもない自意識を根拠に40年間も持ち続けていたなんて、よく考えたら本当に馬鹿げた話だ。「私はとーっても繊細なので新しいものが苦手でぇーす!」という性質を言い訳にし、自分の「ぶんむくれ」を躊躇いなく憮然と表出させる姿はむしろ繊細などではなく横柄であり、居丈高、高慢ちきとも言える。って、高慢ちきだったのかよ私は。ファミマのサンドイッチ今食べ終わった。(おいしかった)まあ冗談はこのくらいにして。この時期、季節の変わり目ってんですか、いつもなら気にならないことが気になったり、いつもなら流せるような他人の発言を重く受け止めてしまったりしませんか、するよね。私はしますよ。だって春はいろんなものが一気に始まる季節なんだもん。たくさんの出来事がオーバーフロウしてるってだけでしんどいのに、いっぱいいっぱいになっちゃって、余裕なくなるよね。余裕がなくなれば自分らしさもなんとなく薄れてしまって、自分らしさがよくわからなくなったら自分を愛することだって出来ない。こんなに美しい季節に、こんなに素敵な私達が一体なんでこんなに悲しい気持ちにならなきゃいけないんだよ!!と思って、「きみはメロディ」作りました。結局私のアーティスト活動って独り言でしかなくて、他人に語りかけてるようで自分が言ってもらいたいことを歌詞にしてんだなぁ、って出来上がってなんか納得してしまった。わたしはわたしと付き合ってもう40年になる。こんなふうにオルターエゴを設定し自分そのものと対話できるようになったのは(しかも曲まで作っちゃってさ)、職業作家としてのノウハウがあってこそだよなあ。やっててよかったなぁと思うし、四十路にしてもっと伸びしろ感じちゃった。てへ。で、この曲の「きみ」はこれを読んでいる「あなた」で、それと同時に「あなた」は「わたし」でもある。傷ついた人、傷つけられた人に対して罵声を浴びせたり非難する人もいれば、その気持ちや体験に寄り添ってエンパワーする人もいる。私は前者の行動は全く理解できないが、精一杯のエンパシーで後者を選ぶ。私は音楽家だから、「あなたは音楽。あなたの中にはあなただけの素敵なメロディが流れている」と声をかけることができるし、それをこんなふうに形にすることができる。そして、愛をこんなふうに形にすることは、それぞれ人によって違うやり方があり、あなたはあなただけが持つ感性で人に愛を与えることができるし、それで救われる人がめちゃくちゃたくさんいる。そういう愛をあげたりもらったりすることで、私達って結構がんばれるんじゃないかって思うんだよね。新しい季節、この曲があなたの気持ちに寄り添ってくれることを心から祈っています!

帰らない

その日、一日の自分に満足してない時って眠れなくないですか。ああできたかもしれない、こう言えば良かった、なぜあの人はこんな事したのだろう、のようなリストを無意識のままわざわざ一日かけて頭の中に積み重ねて、寝る前になってその書類の束を睡眠時間を削ってまで読み返す様はとても滑稽だ。滑稽だと言ってしまいたい。人類がベッドの中でやる無駄な事オブザイヤー受賞させていい。もちろん人としての成長や向上心を否定しているわけではなく、反省や後悔は人生においてタテマエ上、大いに肝要であると言える。ただそれを学びとか教訓にいつも繋げられるほど人間、器用に出来てはいないわけで、多くのケースでただ意味のない無為さを抱きしめながら夜中にひとり白目剥いて終わりって事全然あると思う。そういう日って子猫の動画とかを見るとかして寝たほうが良い。肌荒れるし。肌荒れたらもっと萎えるし。なので、これを読んでいるあなたは、今日の自分に満足してなくても、ぐっすり寝てください。私が許します。で、表題「帰らない」問題です。私はこれを「眠れない」問題ととても似ていると思っているのですけど、私はその日がもっと楽しくなりそうな予感を察知すると、まだ足りない、もっとほしい、と帰るのをとたんにやめてしまう(最悪)。そして朝方に藤井風さんの「帰ろう」をカラオケで4回歌うんだそうです。1回歌って帰れよ。だそうです、と伝聞形なのは翌日ジャイアン声で熱唱してる自分のボロ雑巾みたいな状態の動画が送られてきたり写真が「親しい友達」とかにタグ付されるからなのですが(やめて)、もし自分がソロアーティストとして音楽をつくるならこういうくだらない日常を歌ったものがいいなと思って作ったのが「帰らない」です。なので「帰ろう」みたいな素敵な曲を想像されている方は本当にごめんなさい。もうすぐPre-Saveとか予約購入とか出来るようになるので、またその時にソーシャルメディアで告知しますね。なんか、自分が歌うものは、あまり意味のないもののほうがいいな。私は意味や矜持がある方の人種だと思ってる人が結構多いみたいなのですが、私って意外と意味がない人間なんですよ。って、あれ、最後にややこしいテーマになっちゃったぞ。

夜に生きる人

もう何年も前のことだけど、「だいたい、歳食ってまで夜に生きてる人なんてのはハミ出しもんなのよ」と馴染みのバーのママがひとりごちていた。グラスを片手にiQOSの煙を吐いている姿はさながら大映ドラマのワンシーンのようで、ひとしきり笑った。直後、自分のことを言われているのに気づいて、やがて苦笑いに変わった。若さというのは特に終盤において夜に消費するものだから(それを青春と言う)、それが終わってもなお夜に棲息し続ける人は陽の当たる目抜き通りなどではなく、どこか誰も知らない鄙(ひな)びた裏路地を歩いている。いつかきっと自分も昼間の大通りを大きな歩幅で歩く日が来るのだろうなと、勝手に思っていた。それはある日突然どこかのタイミングで子どもが急に大人になるというような幻想に似ていて、そういう幻想の善し悪しに対する評価や、あるいはその概念に縛られること、そしてそれを他人に強制することの妥当性について検証する機会は、私たちは意外と与えられてはいない。だから、ほんとうは夜の裏路地を歩いていたい人も、窮屈な靴を履いて陽の当たる大通りを引き攣った笑顔で歩かされているのかもしれないし、それを気づいてほしい人だっているかもしれない。あなたは気づかないかもしれないけど、あなたの周りにそういう人は確実に少なくない数、いる。(あなた自身がそうだったら、私とあなたは仲間だね😉)私たちは、「こうあるべきである」という大多数派の社会や歴史の気まぐれに翻弄されて生きている。だけど一方で「正しさ」は時代とともにアップデートされ、その知識を得ることはやがて身と心を護る防具となる。そうすると、夜に生きている人だって、決してハミ出しもんなどという言葉で自嘲せずとも存在価値があると証明できるし、知性や理解のない人たちに無理やり陽の当たる大通りへと引っ張り出されそうになるような事が起こってしまったとき、自分たちを護ることだってできる。自分を不穏当から護ることはすなわち自分を愛することであり、言い方を変えれば、自分を愛するには自分を護らなくてはならないんだ。人はそれぞれの場所で、それぞれの価値観で輝いている。もし、その輝きが誰かにとって見えなくても、見落とされてしまっていても、あなたには価値がある。夜に生きている光に敏感な私だから、わかるんだ。ていうかある程度以上の眩しさは目が麻痺しちゃって全部同じに見えるから基本無視。どんな結論。

新しい冷蔵庫を買った。

新しい冷蔵庫を買った。冷蔵庫の平均的な寿命は8〜10年だって。知ってます?私は知らなかったので大学入学以来20年以上同じ冷蔵庫を使っていた。サンヨーという(今や存在しない)メーカーの、上に電子レンジが載せられるような、小さなかわいい山吹色の冷蔵庫だった。山吹サンヨーは20年ものあいだ私の貧相な食生活を支えてくれていたが、新たに迎え入れたパナソニックの冷蔵庫は私より身長が高く、いかにも冷やしまっせと言わんばかりの黒々とした無機質な外観で、数10分であらゆるものを凍らせますし全自動製氷機もついてます、何より電気代はあなたが今まで使っていたヤツの3分の1ですよと、山吹色のサンヨーが聞いたら心底震え上がるような、なにひとつ山吹サンヨーが勝てるポイントなどない、山吹色でない事以外は完璧な冷蔵庫だった。山吹サンヨーとさよならした途端に、今度は10年使ったテレビが壊れて、一方でこちらも10年使った洗濯機が壊れた。「テレビなどあまり見ないし、いらないよねぇ!!」というセリフは自称センスあるクソダサ一般人がよく言ってますが(私も言っていた)、今のスマートTVはマジですごい(語彙力)ので電気屋行って触ってみて欲しいし、洗濯機も10年経てば色々進化していて「乾燥フィルターの掃除してくれてありがとう」とか色々喋るし、いったい何なの2020。そんなわけで2020年は我が家の家電が急激に近代化を果たした。「新しさ」は紛れもなくエンタテインメントだ。だけど私の情緒は、山吹色の小さな冷蔵庫みたいなものの方に、どうしても揺れ動いてしまう。「新しさ」は陳腐化するけど、そのものが持っている本質は古くならない。私にとって冷蔵庫というものの本質は「高校生の時の私の若い感性が選んだ、山吹色」という事だった。私はずっと、生活に一番必要ないものは音楽だと思っている。お金や食事や愛は人を生きさせるが、音楽はそれをできない。服や住まいは人を守るが、音楽はそれをできない。できない事ばかりの音楽を愛する理由のことを考えていたら、業者に運ばれてトラックに詰め込まれるあの山吹色の冷蔵庫がふと頭に浮かんだ。音楽はなにもしてくれないけど、思い出を愛するのに似てる。思い出を愛するように愛せるのは音楽だけで、それを作ることが出来てよかったのか悪かったのかわからないけど、この感覚をどこかに記しておきたくて今年はYouTubeに曲をたくさんアップしているので、ぜひ聞いてみてね。今年も私と出会ってくれて、私の音楽を愛してくださってありがとうございました。2021年はいっぱいリリースがあるように頑張ります!(調べたら4曲しかリリースされてなかった、今年w)

東京は深夜25時。

木曜日、東京は深夜25時。いつものクラブに行くと、なじみのバーカンが白眼を剥いてほろ酔いの私を歓迎してくれる。いくつかコインと引き換えに乱暴にカウンターに置かれた東京イチ濃いハイボールを流し込んで、じわりと痺れる喉の感触でやっと夜が始まったと感じる。作詞で煮詰まった一日をアルコールで薄めたら、たかが言葉の組み合わせごときに死に物狂いだった自分がばからしく思え、カウンターに肘をついて緑のレーザービームをぼおっと見つめながら、くだらねえな、と自然と独り言がこぼれる。このクラブはうるさいから、こんなたわいもないつぶやきだって、なめらかに喧騒へと溶けるのである。「また会いましたね」と、私に気づいてかけてきた声が笑っている。私がバーのドアを開けた瞬間からあらかじめ言おうとしていたセリフだろうことは、声色から容易に想像がつく。独り言を言っていたのも見ていたのか、こんないたずらっぽい態度を前にこちらも思わず綻んでしまう。「お久しぶりですね」と、相手の持つジントニックかなにかのグラスと乾杯をして、今日の天気や共通の知人などの話を当たり障りなく。今にも壊れそうなガラス細工を丁重に扱うように、ふたりとも自然と核心を避けている。もちろん、私がまだ返信していないLINEについて追求されることなどもない。イントロ、Aメロ、Bメロ、サビ。最近ではサビから始まるヒット曲が多いし、「ライブで盛り上がるので、頭にサビを持ってきてほしい」と、私もけっこう頼まれる。そういう曲、そういう前提で作るのなら、頭にサビを持って来たって成立する。メロディや歌詞のストーリーを捻じ曲げてでも頭にサビをと言われた時は、私はそれはいちおう断る。私は必然性のない脈絡のなさに嫌悪感をおぼえるからだ。「こないだは楽しかったですね」と言われて、堰を切ったようにやっと気持ちが楽になる。「俺も楽しかった、あのお店美味しかったですね」「じゃあまた食事しましょう。つぎはやっと三回めですね」という、その笑いの意味は。いい年した大人がふたり、食事がイコールXXXだということだなんてお互い承知の上で、こんなに丁寧なアポイントメントをし、あまつさえGoogleカレンダーにスケジュールを追加しているのはとても滑稽に思えた。頭からサビがスパークしているような。こういうのは私の脈絡ではなかったはずだが。いちおうDJバーのくせに、この店でかかっている音楽は本当に適当で、ビリー・アイリッシュがかかったかと思えば2パックに繋がったり、そこからテイラー・スウィフトに行って次はTLCのような、とんでもなく無責任なミックスが聞ける。音楽とは、ジャンルとは、BPMとは…、などと考えこみがちな私にとって、この心底くだらないDJミックスに耳を傾ける時間は、意外な角度から硬くなりがちな頭を和らげてくれると同時に、音楽に脈絡など特に必要ではないという事を気付かせてくれるのだった。ふたりとも好きなアリーヤの曲が流れたので、「じゃあ踊りますか」とたどたどしく手を取りあってフロアに向かうふたり。バーカンが向こうの方でニヤつく。うるさいな。東京は深夜28時。曲はアリーヤからヴァネッサ・カールトンに変わっていた。こんな訳の分からない脈絡のなさも、今夜は心地よく、そしていつしか好きになり始めていた。脈絡のなさを愛する。それを歌にしようと思って、頭の中で三行ほど歌詞が浮かんだが、濃いハイボールのせいで酔いが回って、すぐに忘れてしまった。あのとき着ていた、服の色さえも。※フィクションです。…だと思う😂

猫には嫌なところがまったくない

私はこの16年、2匹の猫と暮らしていた。暮らしていた、と過去形なのは、去年夏の終わりにそのうちの1匹が16歳で死んだから。SNSでは露骨に触れなかったけど、こんなに自分って感情的だったんだってびっくりするほど泣いたし、自分ってこんなグズグズした性格だったっけって思うほどいつまでもいつまでも引きずっていて(私は自分をわりとドライな性格だと思っていた)、猫が死んだ事で出会ったことのない新しい自分を受け入れなければならなかった。 私は基本的に自宅へあまり人を招き入れる事がないから、その死んだ猫のかわいさや、優美なしぐさ、少し変わった鳴き声(というかダミ声)、ゴールド色の瞳、ふわふわした毛(ブラッシングしてもキリがない)の感触、その毛を新しく買った高い服を狙ってなすりつける事とか(やめてほしいw)、お腹の上に乗った重さ(首を踏み踏みするからすごく痛いw)、水道から直接水を飲むのが好きな事や肉球の間の毛がすぐ伸びる(だから床でよくツルッと滑ってて、笑った)事など、その子のそういう事を知っている存在は、この世界中で、私だけだ。 それは、その猫が死んだ悲しさを背負うのは、世界中で私だけだということを意味する。独り占めでかわいがってきた分、死んだときの悲しさは誰ともシェアできなくて辛かった。誰とも共有できない感情は、鏡にこびりついた水垢のようで、ただただ視界を曇らせて、誰の慰めの言葉も耳に入らなくて、ましてやこんな時、音楽なんてひとつも助けてくれやしない。私は悲しみ方が下手だった。 

3センチぶんのキャンドル

今年は色々とライフスタイルの変化もあって、生活を整える機会がたくさん訪れた一年だった。定期的な運動をしたり、自炊を楽しんだり、部屋をタイディにしたり、生活するという舞台があるとすれば、そのステージを効率よく美しく運営するにはどうしたらよいかみたいな事を常に考えるような一年で、そのプロセスを実際とても楽しんでいる。逆瀬川から渋谷に引っ越してもう10年が過ぎて、気づけばこの10年の私は、いつのまにか「生活すること」を放棄していた。プロパーで健康的なご飯を食べようと思わなかったし、まったく成果の出ないジム通いをしながら、生活リズムはすぐに昼夜逆転して、家事は苦手だからと挑戦もせず、部屋をきれいに整理するなどもってのほか(整理をしたくないので私の家は極端にものが少ない)。楽な方へ、心地よい方へと自堕落に流れ続け、こと生活に関してはその丁寧な運営をする事をいつしかやめてしまった。「何もしない」という事がとても魅力的に見え、それがとても格好良く感じられた。下流へ抵抗なく流されていくのは死んだ魚だけである。私はこの10年、死んだ魚だった。それに気づいたとき、私は久しぶりに恥ずかしい気持ちになった。 衣食住をないがしろにしていても、私は仕事さえきちんとしていれば良いなどと考えていたから、不幸な事にそれを省みるチャンスも出会いも無かった。ではなぜ突然それではダメだと気づいたかというと単純なもので、ダメな自分に飽きてしまったからだ。人間てよく出来ているなあと思うのだけど、どう考えてもおかしい状況の渦中にいる時は、それの何がどういう風におかしいのかというのを理解するのが難しくて、ちょっと時間が経ってから、「あれ、あのときの私おかしかった?」という経験は、誰しも一度はあると思う。ただその10年間を否定したいかといえば全くそうではなく、やっぱり人っていうのはこのような遠回りを繰り返して少しずつ新しい事を覚えていくんだなあ、うまく出来てるもんだなあと関心する。この年になってもこういう気付きがあるんだから、人生は死ぬまで発見の連続だ。こんな些細な事もきっと今後私が作る音楽に投影されていくんだと思うと、生きることはやめられないね。音楽に落とし込めなくなったら、私はいろんな意味で死ぬのかも。 だから、今年ホリデーシーズンのロマンチックな時間が、まだキャンドル3センチぶんしかなくても、まだまだ未来は期待できる。みなさまくれぐれも良いお年を。 

5年使わないモノ・5年使わない感情

気づけば使わなかったものをたくさん持っている。ずっと使っていたけどいつしか使わなかったものもあるし、手に入れてから一度も使わなかったものもある。まっさらのままホコリをかぶったものって、新しいのに古くてなんか不思議で、なんかシュールで、なんか哀れだ。もちろん、わざとそうしたわけではなく、必ず必要になるだろうと思って手に入れるに決まっている。でも、いつしか日々の雑事にその存在感が溶けてぼやけ、もっと便利なものとかもっと新しいものに目移りして、そのうちクローゼットや戸棚の奥の方へぞんざいに追いやられる。文字通り何年も日の目を見ない事になる。何年かに一度の掃除のタイミングで、「こんなのあったな」ってつぶやきはするけど、ゴミ袋へ突っ込もうとする私の右手にはなんの感情も伴わない。5年使わなかったものなどこの先も使うわけがないから、愛着など起きようがない。そういうものを集めたら、実にゴミ袋10袋分となった。もともとかなり効率的に無駄を省いた私の生活スタイルでも、こんなにもたくさんの使わないものと共に生活していたのか。まったくバカみたいな話だ。5年使わなかった感情がある。私はさいきん、ここ5年のうちに失った感情がある事に気づいて、同時にその感情と過ごした日々を懐かしく思い出しながら、またそれを自分の心に住まわせようとしている。5年も経つと人は変わるから、ものでも感情でも、何が必要で何が必要でないのかの基準は常に流動的だ。去年好きだった服だってもう今年は着ないし、嫌いだった食べ物が大好きになったりするし、よく連絡を取っていたあの人もLINEのメッセージ一覧の下の方へだんだん潜り続けたりして、少しずつ私というものを取り巻く環境や状況は徐々にスイッチしていく。電気のスイッチのようにパチンと劇的に切り替わることではないから、この変化はとっても気づきにくい。こういう変化と変化の狭間に人は葛藤や感慨を覚えるんだけど、あとから回想して初めて気づく人が多くて、私はできるだけリアルタイムでそれを感じたいと願うタイプ。なぜなら私はそういう場面を切り取って歌にするのが好きだから。何かを捨てて、何かを手に入れて、何かが変わって、その過程を歌にする。そんな歌は人にとって、ものにも感情にも勝てない、「記憶」というレガシーになり得る。だからこの仕事が続けられていることを本当にありがたいと思うし、歌の持つ力というのは計り知れない。ものも感情も捨てられるけど、必要なときはいつか取り戻せるからね。でも「記憶」は無理。忘れてることも忘れるから。だから、私は私自身とか私の作った歌たちを憶えてもらえることは本当に嬉しくて、でも同時に憶えてもらえているほどのことができているかの自信があんまりなくて。曲を作るモチベーションって、そこなんだろうなぁ、私。なんてとりとめのないことを、ここ最近の三代目さんのライブや、宮野さんのライブを見ていて感じたのでした。

きづき

人生って、失敗するたびに葛藤が生まれ、その葛藤が人生を味わい深くしてくれると思う。そういう苦みがするどい感覚として脳裏に焼き付いて、それが目印のようなマイルストーンになるから、つぎに同じようなシチュエーションに出会ったときの道しるべになったりする。だから失敗しても何かで悩んでても、しっかりと命を燃やしてさえいれば、それがあなたとってこの世に生きた証になる。成功はポジティブで、失敗はネガティブだというコンテクストだけでははかりしれない情緒が人生にはあると思うし、燃え尽きるその瞬間まで精一杯生きる事のほうがはるかに大切で、だから、失敗も成功も、好きも嫌いも、良いも悪いも、毒も薬も、私にとってはその実、単純に是非を比較できない。むしろべつに一絡げでよかったりする。さいきん、ある事があって、こういう「きづき」が降りてきた。こいういうスピリチュアルっぽい事はあんまり私は好きじゃないんだけど、何かしら霊的なインスピレーションがふと頭をよぎる瞬間というのは、今日までの毎日を頭のなかで潜在的にアレコレ処理した結果、ある時やにわにそう感じるような感覚に襲われるんだろうなって思うから、スピリチュアルでもなんでもなく、むしろ論理的でさえあるなあって、合点が行った私。私は何かをつねに思いついたりし続けられないから、ブレストとか会議というのはとても苦手だし、突然制作オファーをもらって楽曲をつくるのも得意ではない。日々の生活の中でいろんなインプットが蓄積されて、数ヶ月に一度、いっぺんに溢れ出る期間が訪れたときに、やっと吐き出せるようになって、そういうときに私の命の燃え殻のようなものが作品として残って、そういう作品は売れたとか売れてないとか関係なく、後から聞いても我ながらお気に入りだったりする。だから、ペットの猫が死んじゃった悲しい日も、好きなアーティストのライブに行く時間も、一日中バカみたいに飲み歩いてるような日も、大好きなひととケンカしちゃった日も、友だちとヘンなメールをやりとりする毎日も、恋人に会えないやるせない日も、今こうやってベッドに寝転びながらラップトップをお腹に乗せてる時間も、どの瞬間の自分もひとつも無駄が無いし、そのすべての要素が未来に一つづつ紐付いてつながっているなあって感じるから、どんな時間も、実はとても愛おしいんだってきづく。若いころはこの感覚がよく分からなくて、今の自分が未来につながっている事がまったく理解できなかったし、想像しようとしても無理だった。でも、過去を積み重ねることで分かる時間の連続性は、自分が人生を終えるある日に向かって急速に収束している事を示唆している。それを肌で実感したときに、人はおとなになったと言えるのかもしれないなあ。他人を通して自分を知り、過去を通して未来を意識する。媒介するものを意識する事で、「生きること」はより立体的になっていく。私のなかの若い人間としての感性はすこしずつ薄れているかもしれないけど、歳を重ねた事によって身につく新しい感性もあって、生きていくってことはほんとうに面白い(興味深い)と感じる。昔は歳をとるのが本当にイヤだったけど、なるほどなあ、人間ってそういうふうにできるんだなあ、って思う事がやっぱり常にあって、そういうステップを一歩ずつ踏みしめていくことは、美しく生きることにつながるから、歳をとるのも悪くないなって、ふときづいたという、ただそれだけのこと。秋の夜長は毎年こんな事ばっかり考えてしまう私。みなさんのさいきんの「きづき」は何でしたか?

ティーンのみんなへ

私のベッドルームは最高。イルミネーションやマンダラ柄の布でヒッピー風に飾り付けられ、枕元ににはいい香りのするディプティックのキャンドルやタンのアロマ・ディフューザーなどがたくさん置いてある。壁には好きなMVやナショジオの映像などを小さなプロジェクターでずっと映し続けているし、すぐ手の届くサイドボードには数週間で数冊ずつ入れ替わる文庫本が10冊くらい置いてある。寝る前の感性というものはランダムなもので、太宰治やS・ミルハウザーからナンシー関まで我ながらコンテクスト不在なチョイスの本が今は並んでいる。さいきん柚木麻子の「ナイルパーチの女子会」をやっと読み終わったから(面白かった、女同士の浅ましいやりとり大好きw)、次は短編集でも読もうかなと思ってクローゼットを漁る。すると一冊のキャンパス・ノートが段ボールの底から出てきて、それが自分が書いたことさえ忘れていた、高校生のころの日記だと気づくのに時間はかからなかった。山田詠美よりも遥かにキツいのが出てきてしまった…。日付を見ると私が16歳〜18歳くらいまでの時期にその時に思った事を散文的に書いてあって、それが直視できないほどの、荒削りで飾り気のない、とんでもない拙さ。これを書いてる人が大人になって作詞家として生計立ててるとは到底考えられないほどのランダムなポエムが並んでいて、世界寝言大全集ですか?ってかんじ。へたくそなイラストまで添えてある。もうやめて。ハイティーンの頃の私は、とにかく毎日がとても辛くて、そしてそれを誰にも相談することができなかった。自分の弱みを人に見せる事を恥だと思っていたし、それを人に伝える術や表現力も持ち合わせていなかった。悲しかったり不安な事の処理の仕方がわからなくて、今感じている自分の感情に名前をつけるとしたら一体どんな言葉なのかをこんなふうに書きなぐることで常に探していた。友人関係に亀裂が入ったとか誰々に無視されるとかスポーツの授業が超イヤだとか(私はテニスとスキー以外は超運動オンチです。運動も嫌いだしついでに体育会系の人も嫌いだし先生と呼ばれる人種もトラウマ)、家族とケンカしたとか勉強ができないとか自分って一体なんなんだろうとか、なんでこんなヘンな顔に生まれてきたんだろうとか。全世界に否定されているような気持ちになって、するとどんどん自分で自分自身を否定するようになって、自己肯定感がますます低くなっていくという悪循環のループから抜け出せない。私の狭い17歳の世界ではそれらの取るに足らない悩みが、明日の生死を左右するほど重要な問題に思われた。今なら友だちとケンカしたって原因を探しだして解決するだろうし、勉強とかスポーツなんて適当にサボるだろうし笑、苦手な人は避けるし、家族ともうまくやっていく術を身に着けているから、やっぱり自分も何気にちゃんと大人になったんだなあなんて思うけど。人間って本当バカで、今なら当たり前に出来る事も、初めは出来なかった事をみんな忘れちゃうんだ。あらゆることを初めて肌て感じる17歳には、あらゆることの荷が重くて、つらくて、かなしくて、めんどくさくて、ただただ力なく立ちすくむだけだった。死んだら楽になるかなあとか、明日世界が終わらないかなとか、本当にそんな物騒なことを本気で考えていた。そんな気持ちを誰かとシェア出来る性格だったら良かったんだけど、私はいわゆるコミュ症な17歳だったから(今もそうなんだが)、ただただお腹の奥底でどす黒い感情をグツグツ煮こみ続ける事しか出来なかった。自分でも忘れていたことだけど、日記を読んでいると「自分はもうダメだ、誰とも仲良くなれないし、誰とも人生の喜びや哀しみをシェア出来ない。ひとりぼっちだ。自分って一体なんだろう、誰にも理解されないし、本当に辛い、消えたい」みたいな事が書いてあって(しかも英語で笑)、うわあ、私にもこんなふうに思ってた時期があったんだなあって、センシティブな17歳の自分にちょっと笑った。今なら「私は消えんぞ、おまえを消す」って書くと思う笑あと「なんでこんな辛いのか色々考えたけど、"あの事" が全ての元凶だと思う」って何度も数ページにわたって書いてあって、18年後の私にはその「あの事」がなんの事やらさっぱり思い出せない。わざわざもったいぶって、一体何事か。腹立たしさえ覚える。で、私が何が言いたいかっていうと、今この時期を真っ盛りで過ごしている高校生のみんな、今悩んでる事はすこしずつ自分のちからで解決できるようになっていくし、そんな事があった事さえ忘れちゃうんだから、自分や他人を傷つけちゃだめだよ。大丈夫、あなたらしくいさせてくれる人がこの先きっと現れるから。あなたの素晴らしさは誰にも否定できない。あなたの悲しみや辛さはいつかきっと煙が空気に溶けるように、なくなる。あなたの価値はあなたの命にひもづいていて、それは誰にも奪えないよ。あなた自身からも。私がこの頃の事で唯一今もちょっと胸が痛むなっていうのは、おばあちゃんが亡くなった事と、友だちが死んじゃった事だけ。それ以外の事はいつのまにか気づいたらどうでも良くなってる。辛くて悲しいことは全部音楽にして吐き出す。不器用ながら身近な人に話したり、こうやってブログに書いたりする。もちろん、今だって寂しいとか辛いとか思う事ももちろんあるけど、孤独や悲しさとも、だんだんうまく付き合っていけるようになるんだ。寂しくてもいい、つらくてもいい、何かを嫌いでもいい。大丈夫。「世界は実はすごく広くて、本当は、あなたはすごく自由。」17歳の自分にいいたい言葉はこれでした。