もう何年も前のことだけど、「だいたい、歳食ってまで夜に生きてる人なんてのはハミ出しもんなのよ」と馴染みのバーのママがひとりごちていた。グラスを片手にiQOSの煙を吐いている姿はさながら大映ドラマのワンシーンのようで、ひとしきり笑った。直後、自分のことを言われているのに気づいて、やがて苦笑いに変わった。
若さというのは特に終盤において夜に消費するものだから(それを青春と言う)、それが終わってもなお夜に棲息し続ける人は陽の当たる目抜き通りなどではなく、どこか誰も知らない鄙(ひな)びた裏路地を歩いている。
いつかきっと自分も昼間の大通りを大きな歩幅で歩く日が来るのだろうなと、勝手に思っていた。それはある日突然どこかのタイミングで子どもが急に大人になるというような幻想に似ていて、そういう幻想の善し悪しに対する評価や、あるいはその概念に縛られること、そしてそれを他人に強制することの妥当性について検証する機会は、私たちは意外と与えられてはいない。
だから、ほんとうは夜の裏路地を歩いていたい人も、窮屈な靴を履いて陽の当たる大通りを引き攣った笑顔で歩かされているのかもしれないし、それを気づいてほしい人だっているかもしれない。あなたは気づかないかもしれないけど、あなたの周りにそういう人は確実に少なくない数、いる。(あなた自身がそうだったら、私とあなたは仲間だね😉)
私たちは、「こうあるべきである」という大多数派の社会や歴史の気まぐれに翻弄されて生きている。だけど一方で「正しさ」は時代とともにアップデートされ、その知識を得ることはやがて身と心を護る防具となる。そうすると、夜に生きている人だって、決してハミ出しもんなどという言葉で自嘲せずとも存在価値があると証明できるし、知性や理解のない人たちに無理やり陽の当たる大通りへと引っ張り出されそうになるような事が起こってしまったとき、自分たちを護ることだってできる。自分を不穏当から護ることはすなわち自分を愛することであり、言い方を変えれば、自分を愛するには自分を護らなくてはならないんだ。
人はそれぞれの場所で、それぞれの価値観で輝いている。もし、その輝きが誰かにとって見えなくても、見落とされてしまっていても、あなたには価値がある。夜に生きている光に敏感な私だから、わかるんだ。ていうかある程度以上の眩しさは目が麻痺しちゃって全部同じに見えるから基本無視。どんな結論。
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