おしん

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Husler 気取りよりも 超Divaでごめんね

人の記憶のあいまいさほど信用できないものはない。だから、人は自分の受け入れやすいよう「事実」の形を変えて、自分だけの「真実」を作り上げる。都合の悪いディテイルや忘れてしまいたい事をシュガーコートして、自分だけの甘やかな真実と向き合っているのはとても心地よい。かっこよく、あるいはかわいく撮れたセルフィをインスタグラムに上げるのと同じで、自分の記憶のなかに存在しておきたい自分の姿が品よくありたいのは誰だって同じだ。それは人間だけが生まれもった、げに平易な、直球のナルシシズムだと思う。素敵な自分は好きで、そうでない自分は嫌い、という単純な自意識だ。こうありたいという自意識が人の行動パターンを作り上げ、キャラクターを形作るから、外界や他者からの刺激によって自分がビルドアップされていくというプロセスは、人間関係を重視するヒトならではの処世術という感じがする。だから、私は個人的に「わたしらしさ」とか「わたしだけのセンス」というものは存在し得ないと思っていて、自分らしさだと感じているものはすべて、これまでに誰かから、あるいは何かから受けた刺激によってオーガナイズされた結果でしかないと考えている。だから、「わたしらしさ」なんて、そもそも存在しない。という事にした。私は20代のころずっと「わたしらしい」とはどういう事だろう?と悩んでいたから、こういうふうに考えるようになって、少しだけ気が楽になった。例えば、私がバーで知り合った人と酔いに任せてそのままホテルに行って朝まで過ごしたとする。そしたらまわりの友人は「けんけんらしくな〜い」と言う(私は友人にけんけんと呼ばれている)。そういう時に私は彼らが表明した意外性に驚く。驚くと同時に、すこし否定、あるいは非難めいたニュアンスも感じる。友人の言葉の裏に蓄積された澱んだネガティヴィティが、私の記憶を都合よく改変しようとする。たとえば「90年代のR&Bのミュージック・ビデオのような、ロマンティックで素敵な夜だった」とか。実際は場末のラブホテルで野蛮な行為をしただけなのに、品よくありたいというずる賢さが事実を歪曲して、真実として海馬に格納しようとする。「わたしらしい」など存在しないと結論づけているのにもかかわらず、「あなたらしくない」と言われたら、その発言者の理想を叶えようとしてしまう私は、滑稽だと思う。ふとした時に「わたしらしい」と「あなたらしい」の間で動く葛藤めいたものが、理想の自分を頭の中で作り上げる。でもそれは本当の「わたしらしさ」ではなく、「わたしらしさ」という名のペルソナであり、綺麗事だ。私が今まで作った(あるいはこれから作るであろう)たくさんの作品はすべて「けんけん」がこうありたいと願ったオルターエゴSTYが作品上で演じている理想のキャラクターだ。私は文芸作品よりもエンターテイメント性の高い綺麗事が大好きだから、私の作品には強いもの、キラキラしたもの、エンパワメントな登場人物が主人公の曲が大半を占めている。虚飾であっても美しいものが見たい、見せたい、というテーマはプロデューサーSTYとして一貫しているとは思う。BananaLemonの新曲 “LOOK AT ME, LOOK AT ME” はそんな私の虚飾性が全開に現れた曲で、「生まれ変わったらビヨンセになりたい」とか本気で考えている私が(笑)、堂々としたディーバの生き方や人生哲学ってこうあってほしいなと思って作った曲だ。(はい、ここまでが前置き。なげーよ)ここからやっとぬるい文章になっていきますので、ご安心ください。

New girls who dis?

出る杭は打たれる。よけいな事を言えば除外されるし、目立とうとすると押さえつけられる。その場に相応しい態度や言動が求められるし、クリティカルな意見はシュガーコートしないとダメ。見た目で判断されるのも不愉快だし、だからって中身を見ようともしない人たちが腹立たしくてしょうがない。不満は飲み込んで存在しないかのように笑わないといけないから、ムカつくもの全部まとめてぶっ飛ばそうかな。分かってくれないなら別にもういいし。勝手にして。私も勝手にするし。BananaLemonの "GIRLS GONE WILD" はそういうふうに怒ってる女の子の曲です。最近、バナレモメンバーも含めて、20歳近辺のヒップホップ界隈のクルーやらスクワッドやらの子たちと話す機会がすごく多いのですが、意外なほどみんな怒ってる。古いシステムに怒ってるし、その中でダサい事しなきゃいけない事にも怒ってるし、自分の感性が他人と共有できない事に怒ってるし、それが認められない業界にも怒ってるし、ダサい人らがいなくなれば自分たちの時代が来るのにと思ってる。なーんだ、私の20歳のときと一緒じゃん(私なんて今でも同じ理由で怒ってる笑)、って思って懐かしくなったのと同時に、今のミレニアルズ世代(って厳密には私もミレニアルズ世代に入るんだがw)もそんな怒りが音楽へのモチベーションになったりする事があるんだと驚いたりしたんだけど、でも最近は特にそういう若者の声って、メディアであんまり可視化されてないなと感じる。こんなにSNSが発達しているのに、そういう怒りは恥ずかしいからみんなポストしない。「本気」はかっこ悪くてSNS映えしないからね。でも、みんな思ってる。で、バナレモは敢えてその「本気」みたいなとこをやる、と。バナレモはキレイ売りなんてしないからね。笑この曲は肌の色に言及したりカースワードも出てくるし結構スキャンダラスなリリックが並ぶんだけど、すべてメンバーからヒアリングした、完全なるナマの声で、特に今回のリリックはSaarahの書いてきたメモを中心に組み立てた。Saarahのメモは全体的にすごく怒ってたんだけど笑、それをきちんとした歌詞になるよう文章とフロウを私が整えて、今の形に仕上がりました。歌詞をよく見ていただければわかると思いますが(リンク)、この曲は前提として "I don't give a fxxk" (だから何?)というテーマが一貫として敷かれているので、誰かとの対話とかレスポンスは一切求めていないのですね。「あんたのいう事なんて聞いてないわよ、でも私らのいう事は聞きなさい」というガールズたちからのジャイアン的・一方的なステイトメントであり、強引な宣言なのです。「私たち、出る杭ですが何か?」というスタンス。だから、出る杭としてガンガン打たれれば打たれるほど、この歌のリリックというのはどんどん意味合いが良い意味で強くなっていくという設計になってます。笑 我ながらどう転んでもスキがない作り。笑ぜひ、一度聞いていただけるとうれしいです!(字幕をONにしてね!)

ONE DAY

※当サイトの転載はご遠慮ください「なくなって初めてその大切さに気づく」というようなよくあるクオートは、しっくり来る人と来ない人で分かれると思う。この文は「なくなったもの」を長い間持ち続けていた事を示唆しているから、その経験があるかないかで実感は変わるだろう。私は特に若いころこの類のクオートの意味がわからなかった。だって若い人にとって人生は「今」そのものであり、その美しさを悉に享受できる感性が備わっているから。過去や将来を顧みないその美しさは良く言えば荒削りな原石の輝きであり、悪く言えば向こう見ずの鉄砲玉だ。 私はもう別に若くはないから、人生は今だけよ〜なんて極端なこと考えてはないけど、人間生き方を変えるのはこれがなかなか難しいもので、過去や将来というものから逃げ続けている私は、いつまでたっても大人になれない。やっかいなオジサンになってしまった。でも過去や未来の事ばかり話しているオジサンも結構やっかいだから、別に気にしない。私はいつでも私を離脱できるよう、大切なものを持たないようにしている。ものは、手に入れると古くなるし、お金は、感性をにぶらせる。名誉は、目を曇らせるし、権力は、創作の敵だと考える。それらはつねに「過去」や「未来」を感じさせるから、私はそういう「大切とされるもの」が嫌いだ。だって、大切なものを持たなくても、自分の命があるだけで私は十分に裕福だ。逆に言うと誰にも奪えないものはそれだけだし、それ以外のものはきっといつかなくなるし。 それでは「いつかなくなる」ものに価値はひとつもないのだろうか?と思って書いたのが、今市隆二くんソロデビュー曲の「ONE DAY」でした。こんな私でも「いつかなくなる」と考えると怖いものってあるのだろうか?という思考実験のもとに、愛する人とのあらゆる瞬間や当たり前の光景を洗い出し、それらがなくなると考えた時自分がどんな気持ちになるのかを知りたくてこの曲を書いた。答えは「残りの人生と、あなたとの一日を交換しても良い」とまで思えるような相手なら、その愛はきっと自分の命そのものに値するだろうという結論だった。普段ラブソングをまったく書かない私からすると、出来上がってこんなに重い愛の歌になるとは思わず、我ながら面食らった(三浦大知くんの「別れのベル」もそうだったけど、私こういうテーマになるとどうしてもこう、なんていうか、泥臭くなる)。あんまり幸せな恋愛したことないから、ライトなラブソングなんて書けないのよ、私。笑この曲はこの後どうなったか、ここまでどうだったかをひとつも描いていないから、「今」の「君」と「僕」がひたすら交錯する時間が淡々と流れるだけ。恋人へのコミットメントに、未来や過去の責任を介在させない場合、どんな関係性が浮かび上がってくるのでしょうね。 この曲は「恋人との最後の一日」だと考える人もいれば、「なんでもないある一日をふと大切に思った曲」だと言う人もいたり、「今はいない恋人の事を歌っている」と感じる人もいたり…、人によって色んな受け取り方をしているのがとてもおもしろいのだけど、私としては…、どんな気持ちで書いた曲なのかは秘密にしておきますね。 そして、この曲には実は続編の曲があるのですが…、それはまた何年後か、何十年後になるかはわかりませんが、また別の話。 

いつも孤独の事を考えている人のために。

泥酔して部屋に戻ると、今すぐになにもかも投げ出して眠りたいのに、キッチンで加湿器のタンクに水が溜まるのをじっと見つめている。いっぱいになったタンクは結構重くて、酔っているから、ふらりとよろめいてしまう。独り宛のない舌打ちをすると、猫がにゃあと鳴いて、ガランとした真っ暗なリビングに反響する。大人になると、めんどくさい事が増える。明日や来週の事、もっと未来の事などもちゃんと考えなくてはいけないから、たとえばこんな風に明日の喉のために加湿器に水を入れる事などがわずらわしいと思う。なんて、代わりに大人になって増えた楽しいアレやコレを享受したり、責任やコミットメントなどを誇らしく思ったりもする。だけど、若い頃もおとなになってもやっぱり、環境が変わったり歳を重ねても、私はいつも悩みと幸せを常に同じ比率で持ち続けている事に、こんなタイミングで気付いてしまう。タンクからこぼれた雫が点々と落ちて、シンクから加湿器まで一本の道を作る。人生もこんなふうに単純な一本道だったらいいのに。曇った脳でふと思ったばかみたいな事をひとりごちて、猫を抱いて寝室へと向かう。酔って帰宅して寝るまでの自分を客観的に思い返すと、こういう圧倒的な孤独はリリカルだなと思う。ここ数年ほど、孤独がアートを産むという、その思いは私のなかで顕著だ。そしてそのアートを人とシェアする事で孤独は蒸発して昇華される。そういう生き方は疲れるのだろうけど、私はたのしいと思っている。2017年はBANANALEMONという新しいアーティストを作って、色々クリエイターとして暴れた一年でした。その分職業作家としての仕事量を極端にセーブしている事もあり、良い意味でストイックに、ハングリーなサウンドメイクやソングライティングができてるなぁって自分でも思います。メンバーとスタッフ、そしてファンのみなさま、いつもサポート本当にありがとう。クリエイターとしてとてもよい環境で生かされてます。私と言えばMR.TAXIとかR.Y.U.S.E.I.とかのイメージだと思いますが、バナレモのサウンドやリリックが一番今の私らしいです。よかったら聞いて下さい。来年もどうぞよろしく!

猫には嫌なところがまったくない

私はこの16年、2匹の猫と暮らしていた。暮らしていた、と過去形なのは、去年夏の終わりにそのうちの1匹が16歳で死んだから。SNSでは露骨に触れなかったけど、こんなに自分って感情的だったんだってびっくりするほど泣いたし、自分ってこんなグズグズした性格だったっけって思うほどいつまでもいつまでも引きずっていて(私は自分をわりとドライな性格だと思っていた)、猫が死んだ事で出会ったことのない新しい自分を受け入れなければならなかった。 私は基本的に自宅へあまり人を招き入れる事がないから、その死んだ猫のかわいさや、優美なしぐさ、少し変わった鳴き声(というかダミ声)、ゴールド色の瞳、ふわふわした毛(ブラッシングしてもキリがない)の感触、その毛を新しく買った高い服を狙ってなすりつける事とか(やめてほしいw)、お腹の上に乗った重さ(首を踏み踏みするからすごく痛いw)、水道から直接水を飲むのが好きな事や肉球の間の毛がすぐ伸びる(だから床でよくツルッと滑ってて、笑った)事など、その子のそういう事を知っている存在は、この世界中で、私だけだ。 それは、その猫が死んだ悲しさを背負うのは、世界中で私だけだということを意味する。独り占めでかわいがってきた分、死んだときの悲しさは誰ともシェアできなくて辛かった。誰とも共有できない感情は、鏡にこびりついた水垢のようで、ただただ視界を曇らせて、誰の慰めの言葉も耳に入らなくて、ましてやこんな時、音楽なんてひとつも助けてくれやしない。私は悲しみ方が下手だった。 

3センチぶんのキャンドル

今年は色々とライフスタイルの変化もあって、生活を整える機会がたくさん訪れた一年だった。定期的な運動をしたり、自炊を楽しんだり、部屋をタイディにしたり、生活するという舞台があるとすれば、そのステージを効率よく美しく運営するにはどうしたらよいかみたいな事を常に考えるような一年で、そのプロセスを実際とても楽しんでいる。逆瀬川から渋谷に引っ越してもう10年が過ぎて、気づけばこの10年の私は、いつのまにか「生活すること」を放棄していた。プロパーで健康的なご飯を食べようと思わなかったし、まったく成果の出ないジム通いをしながら、生活リズムはすぐに昼夜逆転して、家事は苦手だからと挑戦もせず、部屋をきれいに整理するなどもってのほか(整理をしたくないので私の家は極端にものが少ない)。楽な方へ、心地よい方へと自堕落に流れ続け、こと生活に関してはその丁寧な運営をする事をいつしかやめてしまった。「何もしない」という事がとても魅力的に見え、それがとても格好良く感じられた。下流へ抵抗なく流されていくのは死んだ魚だけである。私はこの10年、死んだ魚だった。それに気づいたとき、私は久しぶりに恥ずかしい気持ちになった。 衣食住をないがしろにしていても、私は仕事さえきちんとしていれば良いなどと考えていたから、不幸な事にそれを省みるチャンスも出会いも無かった。ではなぜ突然それではダメだと気づいたかというと単純なもので、ダメな自分に飽きてしまったからだ。人間てよく出来ているなあと思うのだけど、どう考えてもおかしい状況の渦中にいる時は、それの何がどういう風におかしいのかというのを理解するのが難しくて、ちょっと時間が経ってから、「あれ、あのときの私おかしかった?」という経験は、誰しも一度はあると思う。ただその10年間を否定したいかといえば全くそうではなく、やっぱり人っていうのはこのような遠回りを繰り返して少しずつ新しい事を覚えていくんだなあ、うまく出来てるもんだなあと関心する。この年になってもこういう気付きがあるんだから、人生は死ぬまで発見の連続だ。こんな些細な事もきっと今後私が作る音楽に投影されていくんだと思うと、生きることはやめられないね。音楽に落とし込めなくなったら、私はいろんな意味で死ぬのかも。 だから、今年ホリデーシーズンのロマンチックな時間が、まだキャンドル3センチぶんしかなくても、まだまだ未来は期待できる。みなさまくれぐれも良いお年を。 

5年使わないモノ・5年使わない感情

気づけば使わなかったものをたくさん持っている。ずっと使っていたけどいつしか使わなかったものもあるし、手に入れてから一度も使わなかったものもある。まっさらのままホコリをかぶったものって、新しいのに古くてなんか不思議で、なんかシュールで、なんか哀れだ。もちろん、わざとそうしたわけではなく、必ず必要になるだろうと思って手に入れるに決まっている。でも、いつしか日々の雑事にその存在感が溶けてぼやけ、もっと便利なものとかもっと新しいものに目移りして、そのうちクローゼットや戸棚の奥の方へぞんざいに追いやられる。文字通り何年も日の目を見ない事になる。何年かに一度の掃除のタイミングで、「こんなのあったな」ってつぶやきはするけど、ゴミ袋へ突っ込もうとする私の右手にはなんの感情も伴わない。5年使わなかったものなどこの先も使うわけがないから、愛着など起きようがない。そういうものを集めたら、実にゴミ袋10袋分となった。もともとかなり効率的に無駄を省いた私の生活スタイルでも、こんなにもたくさんの使わないものと共に生活していたのか。まったくバカみたいな話だ。5年使わなかった感情がある。私はさいきん、ここ5年のうちに失った感情がある事に気づいて、同時にその感情と過ごした日々を懐かしく思い出しながら、またそれを自分の心に住まわせようとしている。5年も経つと人は変わるから、ものでも感情でも、何が必要で何が必要でないのかの基準は常に流動的だ。去年好きだった服だってもう今年は着ないし、嫌いだった食べ物が大好きになったりするし、よく連絡を取っていたあの人もLINEのメッセージ一覧の下の方へだんだん潜り続けたりして、少しずつ私というものを取り巻く環境や状況は徐々にスイッチしていく。電気のスイッチのようにパチンと劇的に切り替わることではないから、この変化はとっても気づきにくい。こういう変化と変化の狭間に人は葛藤や感慨を覚えるんだけど、あとから回想して初めて気づく人が多くて、私はできるだけリアルタイムでそれを感じたいと願うタイプ。なぜなら私はそういう場面を切り取って歌にするのが好きだから。何かを捨てて、何かを手に入れて、何かが変わって、その過程を歌にする。そんな歌は人にとって、ものにも感情にも勝てない、「記憶」というレガシーになり得る。だからこの仕事が続けられていることを本当にありがたいと思うし、歌の持つ力というのは計り知れない。ものも感情も捨てられるけど、必要なときはいつか取り戻せるからね。でも「記憶」は無理。忘れてることも忘れるから。だから、私は私自身とか私の作った歌たちを憶えてもらえることは本当に嬉しくて、でも同時に憶えてもらえているほどのことができているかの自信があんまりなくて。曲を作るモチベーションって、そこなんだろうなぁ、私。なんてとりとめのないことを、ここ最近の三代目さんのライブや、宮野さんのライブを見ていて感じたのでした。

きづき

人生って、失敗するたびに葛藤が生まれ、その葛藤が人生を味わい深くしてくれると思う。そういう苦みがするどい感覚として脳裏に焼き付いて、それが目印のようなマイルストーンになるから、つぎに同じようなシチュエーションに出会ったときの道しるべになったりする。だから失敗しても何かで悩んでても、しっかりと命を燃やしてさえいれば、それがあなたとってこの世に生きた証になる。成功はポジティブで、失敗はネガティブだというコンテクストだけでははかりしれない情緒が人生にはあると思うし、燃え尽きるその瞬間まで精一杯生きる事のほうがはるかに大切で、だから、失敗も成功も、好きも嫌いも、良いも悪いも、毒も薬も、私にとってはその実、単純に是非を比較できない。むしろべつに一絡げでよかったりする。さいきん、ある事があって、こういう「きづき」が降りてきた。こいういうスピリチュアルっぽい事はあんまり私は好きじゃないんだけど、何かしら霊的なインスピレーションがふと頭をよぎる瞬間というのは、今日までの毎日を頭のなかで潜在的にアレコレ処理した結果、ある時やにわにそう感じるような感覚に襲われるんだろうなって思うから、スピリチュアルでもなんでもなく、むしろ論理的でさえあるなあって、合点が行った私。私は何かをつねに思いついたりし続けられないから、ブレストとか会議というのはとても苦手だし、突然制作オファーをもらって楽曲をつくるのも得意ではない。日々の生活の中でいろんなインプットが蓄積されて、数ヶ月に一度、いっぺんに溢れ出る期間が訪れたときに、やっと吐き出せるようになって、そういうときに私の命の燃え殻のようなものが作品として残って、そういう作品は売れたとか売れてないとか関係なく、後から聞いても我ながらお気に入りだったりする。だから、ペットの猫が死んじゃった悲しい日も、好きなアーティストのライブに行く時間も、一日中バカみたいに飲み歩いてるような日も、大好きなひととケンカしちゃった日も、友だちとヘンなメールをやりとりする毎日も、恋人に会えないやるせない日も、今こうやってベッドに寝転びながらラップトップをお腹に乗せてる時間も、どの瞬間の自分もひとつも無駄が無いし、そのすべての要素が未来に一つづつ紐付いてつながっているなあって感じるから、どんな時間も、実はとても愛おしいんだってきづく。若いころはこの感覚がよく分からなくて、今の自分が未来につながっている事がまったく理解できなかったし、想像しようとしても無理だった。でも、過去を積み重ねることで分かる時間の連続性は、自分が人生を終えるある日に向かって急速に収束している事を示唆している。それを肌で実感したときに、人はおとなになったと言えるのかもしれないなあ。他人を通して自分を知り、過去を通して未来を意識する。媒介するものを意識する事で、「生きること」はより立体的になっていく。私のなかの若い人間としての感性はすこしずつ薄れているかもしれないけど、歳を重ねた事によって身につく新しい感性もあって、生きていくってことはほんとうに面白い(興味深い)と感じる。昔は歳をとるのが本当にイヤだったけど、なるほどなあ、人間ってそういうふうにできるんだなあ、って思う事がやっぱり常にあって、そういうステップを一歩ずつ踏みしめていくことは、美しく生きることにつながるから、歳をとるのも悪くないなって、ふときづいたという、ただそれだけのこと。秋の夜長は毎年こんな事ばっかり考えてしまう私。みなさんのさいきんの「きづき」は何でしたか?